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東京高等裁判所 昭和54年(ネ)1625号 判決

控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 中川賢二

被控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 半田和朗

主文

原判決を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一審及び第二審を通じて、被控訴人の負担とする。

事実

一  控訴人訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

二  当事者双方の事実上の主張は、次のように附加、訂正するほか、原判決事実摘示記載のとおりであるから、それをここに引用する。

(附加、訂正)

1  原判決二枚目表七行目から八行目にかけての「戸籍上原告の子として届け出られている三女あき子(昭和三六年一〇月五日生)は原告の子ではない。」を、「また、昭和三六年一〇月五日三女あき子が出生した。」と改める。

2  同三枚目裏六行目の「郵送したが」を「郵送し、被控訴人はこれにより離婚が成立したものと信じていたが」と改める。

3  同四枚目表九行目の「原告は」の次に「、松子に深い愛情を抱いており、いまさら同女と別れることは思いも及ばぬところであり」を加え、同一〇行目の次に、行を改めて、次のとおり加える。

「被控訴人は、前記離婚届書が破棄されたことを知った後、離婚届を再度提出してもらうため控訴人に懇願を続け、手をかえ品をかえて様々の手段をとったが今日に至るまでその同意を得られず、現在では、控訴人に対し、今後も松子とその間の子らとの生活がおびやかされるのではないかとの畏怖心と嫌悪の情とを抱いている。被控訴人がひたすら願うところは、人生の晩年に当り、松子との間の身分関係を法律的にも正常化させ、苦行に似た従前の生活からも脱却したいことである。」

4  同裏二行目の「仮に三女あき子が原告の子である場合、」を「前記三女あき子(口頭弁論終結時未成年)の」と改め、六行目から七行目にかけての「中三女あき子は原告の子ではないことを否認し、その余」を削る。

5  同六枚目裏一〇行目の「しかし別居後も」の次に、「被控訴人は、戊田工業の債務の整理等について事あるごとに大原の家に立寄り、控訴人からの相談に応じていた。戊田工業の宿舎等は債務の返済に充てるため債権者に譲渡されたのであるが、これらの処分もすべて控訴人と被控訴人との相談の上なされたのである。その間」を、同一一行目の「肉体関係を強い」の次に「、その結果」を、それぞれ加え、同一二行目の「出産した」を「出産し、ここにおいて、」と改める。

6  同七枚目表一行目に、引続いて、「控訴人の大原から上馬への右転居(昭和三一年九月)にあたっては、被控訴人が自転車で荷物を運んだことがある。」を加え、同二行目の「被告が世田谷区上馬から引越し、玉川用賀町の」を「控訴人は、昭和三二年八月、右二男二郎の健康を心配する被控訴人のはからないで、同区用賀町の」と、同八行目の「世田谷五丁目に」を「被控訴人が見つけてきた世田谷五丁目の貸家に」と、同一〇行目から一一行目にかけての「肉体関係を求め」を「肉体関係を求めたので、昭和三六年一月頃までは被控訴人との間でその関係もあり」とそれぞれ改め、同一二行目の次に行を改めて、次のように加える。

「右あき子は、まぎれもなく被控訴人の子であり、その命名をしたのは被控訴人自身にほかならない。すなわち、控訴人が三女を「秋子」と名付けたのを、被控訴人が「あき子」と変えて届け出たのである。被控訴人は、原審において右三女が自己の子であることを争うような主張をしたが、これは離婚原因の体裁を調えるためのみの方便にすぎず、極めて不当である。」

7  同裏五行目の「被告は世田谷五丁目から小平市に、」を「控訴人及び右三人の子らは、昭和三八年一月、被控訴人がみつけた都下小平市の家に引越した。被控訴人は、控訴人らが同所に居住した八年三か月の間、右の家にも月に一、二度は訪れ、控訴人もまじえて楽しい団らんの時を過している。そして、控訴人らは、昭和四六年四月」と改め、同九行目の次に、行を改めて、「被控訴人は、昭和四七年一月三一日交通事故で負傷している。被控訴人が強力に離婚を求めてきたのは、この事故以後のことで、それまでは被控訴人は一時的にも家族的な雰囲気にひたるために控訴人の許にきていたのである。このような被控訴人の態度からも、被控訴人の控訴人に対する真意を垣間みることができる。すなわち、被控訴人は不本意ながら本訴離婚請求にふみきったものであると思われる。」を、同一二行目の「来たのであり、」の次に「被控訴人が老令となり又は健康を害して経済的能力を失った時において、もし松子から疎んじられたとしたら、その時点でもいいから被控訴人に戻ってほしいと念じている。したがって、」を、それぞれ加える。

8  同八枚目二行目の次に、行を改めて、次のように加える。

「(二) 仮に、本件婚姻が破綻していると解しても、本件においては、右破綻の原因はもっぱら被控訴人側にあることは明白であるから、被控訴人の本訴離婚請求は、有責配偶者からするものとして許されるべきでない。」

9  右8の加入文の次に、行を改めて、次のように加える。

「三 右控訴人主張事実に対する被控訴人の反論等

1 昭和三一年頃、被控訴人は、債権者に追われ、窮余控訴人に協力を求めたことはあった。世田谷区上馬の家は、控訴人が自分で見つけてきたものであり、被控訴人が控訴人の引越しの手伝いをしたことはない。控訴人が被控訴人の弟三夫方に移ったのは、三夫の妻の発意で、同女が控訴人を説得した離婚届を再度提出することに同意させようとしたためである。世田谷五丁目の貸家も、被控訴人が見つけてきたものではない。小平市の控訴人の住居は被控訴人が見つけたが、これは被控訴人が突如押しかけてきた控訴人らの処置に困ったからである。被控訴人はその後生活費を届けるため同所を訪れたことはあるが、それは月に一、二度という程ではなく、控訴人らが移転した当初だけ稀に訪問したにすぎない。控訴人が千葉市に移転したのも、被控訴人の意思に関係のないことである。

控訴人、被控訴人間の性的関係は、両者の別居後長期にわたって存在しなかった。前記二男二郎は、両者が別居する以前に懐胎された子である。昭和三六年初め頃最終の性的関係があったが、被控訴人の意識としては、控訴人から離婚届の再提出を得るための手段であった。

以上のとおり、控訴人の別居後は、被控訴人は、控訴人に対して愛情を示したことはなく、一貫して離婚届の再提出を求めてきた次第である。

2 被控訴人は、三女あき子が自分の子であるかどうかについて内心これを疑っていたので、原審においてそのような主張をしたが、原審における鑑定の結果により、現在では、自分の子であることについて納得している。なお、同女を命名したのは、被控訴人ではない。」

第一事実関係

一 婚姻歴と家族関係

《証拠省略》によると、控訴人と被控訴人とは昭和二四年三月結婚式を挙げ、同年五月二三日婚姻届出をなし(いずれも初婚)、以来夫婦の間に昭和二四年一一月一一日長男一郎(昭和二五年一月六日死亡)が、昭和二六年三月一九日長女春子が、昭和二八年三月二六日二女夏子が、昭和三二年一月二五日二男二郎(昭和三三年一一月三〇日死亡)が、昭和三六年一〇月五日三女あき子がそれぞれ出生したこと、他方、被控訴人が訴外乙山松子(昭和八年七月二〇日生、以下松子という。)との間で昭和三二年一月六日長女(松子にとって第一子の意。以下同じ趣旨)竹子(昭和五三年三月一〇日訴外甲野一夫及び同人妻一枝と養子縁組して甲野姓となる。)を、昭和三七年九月三日二女梅子を、昭和四一年七月二五日長男松夫をそれぞれもうけたこと、及び昭和三一年三月頃から控訴人と被控訴人とが別居生活の状態になっていることが認められる。

右認定に反する特段の証拠はない。

二 本件の経過

被控訴人は、「控訴人と被控訴人との夫婦の間柄はすでに破綻して久しく、婚姻を継続し難い重大な事由がある。」と主張し、控訴人は、「控訴人が被控訴人の復帰を熱望し、これが実現すれば両名はいつでも円満な家庭生活を営むことができるのであるから婚姻は破綻しているわけではないし、仮に破綻しているとしてもその責任は専ら被控訴人の側にある。」と主張するので検討する。

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。《証拠判断省略》

1 被控訴人と控訴人との婚姻及び家庭生活

(一) 被控訴人は、昭和二二年一一月モンゴルから復員後株式会社大林組(以下大林組という。)仙台支店に勤務したが、昭和二三年七月同社東京支店に転勤になり、上京した際、かつて被控訴人の実弟甲野三夫を下宿させ経済的援助を与えてくれた丙川マツの熱心な紹介により、控訴人と見合いをし、その後種々のいきさつがあったものの、当事者両名は、昭和二四年三月結婚式を挙げ、同年五月二三日に婚姻届出をした。

(二) 被控訴人と控訴人とは東京都目黒区緑ヶ丘の控訴人の実家に間借りして生活を始めた。ところが、しばらくして平常は無口でありながら時に直線的な感情表現や挙措動作に及ぶといった控訴人の性格に、被控訴人は自己の性格と融和し難いものを感じ始めた。また、被控訴人は、同居していた控訴人の実母ハナとの折合いも良くなかったことから、夫婦間になごやかな雰囲気がないと思うようになった。そして、被控訴人は当時二階に間借りしていた戦友丁原竹夫の室に行き、夜遅くまで同人と雑談することが多かったので、控訴人は、被控訴人との語らいの場を失ったと考え、加えてその頃大林組からの給料の遅配欠配などで経済的に苦しい状況にあった上、控訴人自身初めての妊娠・出産そして乳児の死亡という出来事に遭い、精神的不安も手伝って、何度か書置きして夜間家をとび出す騒ぎを起したこともあった。

被控訴人は、結婚以来控訴人の家族や実弟三夫の生活の援助もしていたため、経済的苦境に陥り、大林組から預った宿舎費を生活のために費消せざるを得なくなり、昭和二五年八月頃退職金をもって右費消金員を填補するため、大林組を退職することを余儀なくされた。被控訴人は、直ちに戊田工業を設立し、自宅(控訴人の実家)を事務所として建設業を始めた。

右の控訴人の実家における生活の間に、控訴人は前記被控訴人との間の長男一郎(死亡)及び長女春子を出産している。

ところが、控訴人の実母の意向等もあり、被控訴人は昭和二六年秋目黒区大原に事務所用建物を取得し、事務所と夫婦の住居とを移転した。控訴人は、幼児を抱えて金策に廻る等、戊田工業の事務を手伝い、昭和二八年三月には二女夏子をもうけた。そして、被控訴人と控訴人との夫婦仲は、右のような性格の差という素地があったものの二女夏子出生の頃までは、ことさらこれが悪化したとはいゝ難い状態にあった。

2 松子と被控訴人との仲

昭和二七年松子が戊田工業に就職し、次第に控訴人に代って経理事務を担当するようになった。被控訴人は、昭和二八年控訴人が二女夏子出産のため実家に戻っていた前後頃から松子と親密になり、その頃から経営の悪化した戊田工業のため松子とともに金策に走り廻り、ついに同年末頃右事務所の隣に新築された宿舎にある被控訴人夫婦の居室の隣室に松子を約半年間居住させ、その頃松子の実家から約五〇万円を借り、更には自宅に夜帰ってこないこともある等、次第に松子と深い仲に陥り、控訴人とは疎遠になって行った。

控訴人は、被控訴人と松子との深い関係を比較的初期の昭和二八年頃知り、その後しばしば被控訴人に対して松子と別れることを求めていたものの、その戊田工業のため果たす役割を考えて、同女のすみやかな退職を要求したり、同女の実家からの融資に異議を述べるなどの、強い拒否の態度を示さなかった。

この間、戊田工業は営業不振を続け、常時負債の返済に追われ、被控訴人と控訴人との生活もますます窮迫するようになってきた。

3 離婚の合意と離婚届の作成

被控訴人と控訴人とは、このような状況のもとで、昭和二九年から翌三〇年にかけて、甲野三夫を交えるなどして、離婚について話し合った。その結果、同年中ば頃には、控訴人は、被控訴人と松子との関係はもはや解消されないであろうから被控訴人と離婚することもやむを得ないと考え、自らもかなり積極的に離婚の意思のあることを表明し、甲野三夫及び丁原竹夫を証人として、離婚届に署名捺印した(三通作成)(なお、控訴人の主張によれば、「控訴人は、夫婦の居室の隣室に夫の愛人松子の居住を黙認せざるを得ない状況下で夫婦生活を営み、松子の転居後もその愛人関係が続くという、「いわば地獄のような生活のなかで、精神錯乱状態に陥り右離婚届を作成した。」というにあり、かつその原審における本人尋問(第二回)において、「控訴人が当時被控訴人と松子との現場を夜見て理性を失ったこともあり、かつこの両者を一緒にした方がよいとも考えて、離婚届を作成したものである。」旨供述するが、前記のように控訴人が被控訴人と松子との関係を知ってから二年程、被控訴人夫婦と松子との隣室同士の生活が解消してから一年程、いずれも経過した後において、第三者を加えての話合いの結果届出書を作成したとの事実からみると、右のような隣室同士の生活等の事実及び控訴人の右供述によっては、右離婚届の作成当時、これが控訴人の真意でなかったとか、甚だ不本意であったとか認定することは困難である。)。

被控訴人は、直ちに右離婚届を松子に見せて安心させるとともに、その後これを同女の親にも見せて松子との関係につき了解を得た。

4 被控訴人と控訴人との別居

かくて、被控訴人は、昭和三一年三月頃控訴人を残し、長女春子及び二女夏子を連れて右大原の住居を出て、世田谷区烏山に借家して転居し、そこで松子と同棲を始めた。そして、その頃同女は妊娠し、昭和三二年一月六日被控訴人との間で長女竹子を出産した。他方、控訴人は、その後靴下の内職をしながら生活し、被控訴人とは時々会って大原の建物の処分による戊田工業の借財の返済につき協議し、昭和三一年九月頃被控訴人との間の二男二郎をみごもったまま同区上馬に一人転居し、その転居については、被控訴人が手伝った。

以来、このような控訴人と被控訴人との別居の状態は、今日まで続いている。

5 控訴人の離婚意思撤回と離婚届の破棄

ところで、先に作成した離婚届は、被控訴人において烏山に転居してから所轄区役所に郵送したが、同年五、六月頃区役所の吏員が印洩れがあると言ってこれを当時大原に残留していた控訴人のもとに持参したところ、すでに二男二郎を身ごもりながら一人暮しをしていた控訴人は、もはや離婚しない旨を決意していたので、その旨を右吏員に告げてその返還を受け、即座にこれを破り棄てた。そのため、右離婚は、その効力を生ずるに至らなかった。

被控訴人は、その頃大原の控訴人の許へ行った際、控訴人から右離婚届書破棄の事実を聞かされたが(なお、その頃被控訴人は松子との婚姻届を所轄区役所に提出したが、被控訴人がなお婚姻中であるということで、受理されなかった。)、それまでの間、被控訴人は、従ってまた松子も、被控訴人が控訴人と離婚したかないしは離婚できるものと思っていた。

6 別居後の被控訴人と控訴人との間柄

控訴人は、昭和三二年一月二五日上馬の住居において被控訴人との間の二男二郎を出産した(この出産の事実と本項3ないし5の事実とから推察すれば、被控訴人は控訴人から前記離婚届を得た後でその破棄を知る前にも控訴人と夫婦関係を結んでいたものである。)。

被控訴人が別居に当り連れ出した長女春子及び二女夏子は、被控訴人の許(烏山)で、松子が母親代りをして養育された。そのため、控訴人は、二男二郎出産後松子の許にある子供らに会うため時折松子の許を平穏に訪れており、昭和三二年七月七日頃松子に対し、子供らの世話をして貰っていることについては謝意を表した上、「自分は三人の子の母となった現在妻の座を捨てることはできないが、松子が正妻でなくても被控訴人と同棲している現状を続けたいのならばそのようにしてもよい。ただし、自分が離婚しないで生きる決心をした以上、子供達を返してほしい。」旨等を記載した手紙を送ったこともあった。

控訴人は、昭和三三年八月世田谷区用賀町居住の甲野三夫方に転居したが、同年一一月二男二郎の死亡直後、松子から二女夏子を引きとり、翌昭和三四年三月頃には長女春子(当時小学生)を通学先から連れて帰り、同年末頃、同区世田谷五丁目の新築建物に転居し、母娘三人の生活を始めた。

被控訴人は、生活費を持参する等のため、別居後も月に二、三度控訴人を訪れており、その際は子供達と遊ぶこともあり、時折宿泊し、昭和三二年一一月中に控訴人と一泊旅行を行う等して、夫婦関係を結んだこともあった。

そして、被控訴人と控訴人とが昭和三五年末頃最終の夫婦関係を結んだため、控訴人は懐妊し、昭和三六年一〇月五日、三女あき子を出産し、被控訴人はその出生を届け出た(被控訴人は、原審(第一回)及び当審の各本人尋問において、夫婦関係に及んだのは控訴人から離婚の同意を再度得たいための策でもあった旨供述するが、採用できない。)。

7 別居後の被控訴人と松子との生活

被控訴人は、建築設計の仕事をしながら引続き鳥山において松子との同棲生活を続け、市川市所在の甲原港運会社勤務に転じ、同市内の飯場に転居し、昭和四〇年千葉市三角町に土地、家屋を求めて転居し、以来、同市××町において建築士、土地家屋調査士の業務に従事している。両名は、更に二女梅子(昭和三七年九月三日生)及び長男松夫(昭和四一年七月二五日生)をもうけ、親子五人でそれなりに円満な家庭生活を営んでいる。

被控訴人と松子とは、右三人の子にいずれも甲野姓を名乗らせて学校に通わせたものの、その成長に伴い法的にも子に甲野姓を称させ、松子との法律上の婚姻を実現しようと願望し、被控訴人は本訴提起に及んだものである。なお本訴係属中、長女竹子は成人し、教員になるに際して、甲野の氏を称するため、被控訴人の長兄である前記甲野一夫夫婦と養子縁組をした。

8 控訴人の近時の生活

控訴人は、世田谷五丁目の居宅において母娘で生活を続け、昭和三七年頃、被控訴人からの生活費の仕送りの中断に伴い生活保護を受けるに至り、同年末市川市の飯場にいる被控訴人方に引越すべく母娘四人で家財道具とともに到着したが、被控訴人に容れられず、一旦被控訴人とともにその実家(長野県所在)に移り、昭和三八年一月被控訴人の探してきた小平市の借家に転居した。

控訴人母娘は屡々被控訴人の来訪を受け、親子でひとときを過し、生活費を受領し、これと控訴人のパート労働による収入で生活した。

長女春子は昭和四四年春高校卒業とともに千葉市所在の被控訴人の建築事務所に勤務した。控訴人母娘は昭和四六年四月二女夏子の高校卒業直後千葉市青葉町の借家に移り、昭和四七年一月被控訴人が交通事故により負傷して入院するまで被控訴人から生活費を受け、これと控訴人及び長女春子の勤労収入とで生活し、同年四月被控訴人の右事務所の一時閉鎖に伴い長女春子は退職し被控訴人からの送金も途絶え、控訴人母娘は昭和四八年七月のほか二回位被控訴人方に転居しようと企てたりした。なお、二女夏子が被控訴人の事務所でアルバイトをしたこともある。現在控訴人は官庁の賄婦、長女春子は控訴人と同居し金融業の事務員をしており、二女夏子は大学卒業後結婚し、三女あき子は千葉大学工学部学生である。

9 被控訴人の控訴人らに対する金銭的支出

被控訴人は、昭和三一年控訴人と別居以来昭和四七年一月交通事故で負傷入院するまでの間、仕事がうまくゆかなかった一時期を除き、控訴人に対し毎月二万五〇〇〇円から五万五〇〇〇円位の生活費を交付し、昭和四八年七月から控訴人が居住している家屋の家賃相当額(月額三万円)のみの支払いを続けている。また、被控訴人は、二女夏子の結婚に際しては一〇〇万円を、三女あき子の大学入学に際しては二〇万円を与えて援助した。

10 離婚に関する控訴人及び被控訴人の意思

昭和三二年頃から昭和四八年本訴提起に至るまでの間、被控訴人は、控訴人住居を訪れた機会等において、自から又は弟の三夫を介してしばしば離婚を求めたが、控訴人の同意は得られなかった。かえって、控訴人が被控訴人に対して松子と別れるよう求めることもあり、そのときは被控訴人は、喧嘩別れの状態で控訴人の許を辞去した。また、昭和三二年から三四年頃までの間、被控訴人からは離婚の調停申立が、控訴人からは夫婦関係調整を目的とする調停申立が、それぞれ一、二度づつ東京家庭裁判所に提起されたが、これら調停はいずれも不調に終った。また、被控訴人は、昭和三七年頃以降控訴人が入信している「生長の家」の信者筋を頼って控訴人から離婚の同意を得ようとしたが、結局成功しなかった。

被控訴人は、今日も松子と別れて控訴人と再び家庭生活を営む意思はない。

他方、控訴人は、今日でも被控訴人が松子と別れて戻ってくることがあれば、これを受け入れるつもりであり、控訴人に落度がないのであるから、離婚が実現しないために松子やその子らが困っていても、筋を通して被控訴人と離婚はしない方針である。

第二検討

第一で認定した事実に基づいて考察する。

一 婚姻の破綻

被控訴人と控訴人との間の婚姻の破綻について検討する。

被控訴人と控訴人とが離婚届を作成し、被控訴人が昭和三一年三月頃長女春子、二女夏子を連れて大原の住居から転居し、松子と同棲生活を始めたこと(第一の二34参照)により、婚姻は破綻に陥り、昭和三二年一月松子が被控訴人との間の長女竹子を出産したこと(第一の二4参照)によりその破綻はさらに進んだものである。

ところで、被控訴人は別居後も控訴人及び子供らを屡々訪問し、生活費を贈り、時に控訴人と夫婦関係を結んでいるものの継続的に同居してはおらず、しかも松子とは外形上は夫婦として同居生活をしているのであるから、被控訴人と控訴人との婚姻は、その実体に乏しいものといわざるを得ない。そして、昭和三五年末頃以降は両者の夫婦関係も途絶えた(第一の二6参照)のであるから、その破綻は回復不能の状態に至ったというべきである。この場合、被控訴人が別居した控訴人をたびたび訪問したのは、子らに対する面接の意味に過ぎず、控訴人に生活費を支払ったのは、法的には妻である控訴人及び子である春子ら三人に対する扶助、扶養義務の履行にすぎないと解すべきもので、これらの事実から、婚姻関係が破綻していないと認めることはできない。

控訴人は、今でも被控訴人さえ松子と別れて戻ってくれば家庭生活を営むつもりであるが、被控訴人が控訴人と別居するに至ってから既に二十数年を経過し(本訴提起時においても十数年を経過している。)、その間被控訴人は松子及び同女との間にもうけた三人の子らと継続して実質的な家庭生活を営んできており、到底これと別れる意思を有しない(第一の二10参照)のであるから、被控訴人が松子と別れて控訴人との家庭生活を再開する見込はないというのほかはない。

二 有責性

本件婚姻の破綻に関する被控訴人の有責性につき検討する。

1 被控訴人の基本的有責性

昭和二八年に被控訴人が松子と親密になる以前において、被控訴人と控訴人との婚姻につき将来破綻に至るべき事情があったとは認められない(第一の二1(二)参照)。そして、昭和三一年三月被控訴人が控訴人と別居した(第一の二4参照)のは、松子との同棲を目的としたものであるが、かかる事態に至った直接の原因は、第一の二1ないし4で認定した経緯から見れば、被控訴人が昭和二八年頃より、松子と深い仲に陥ったこと自体にあるというべきである。

この場合、被控訴人が控訴人との婚姻に応じた動機の一部に恩人でもありかつ熱心な紹介者でもある丙川マツに対する義理立てがあったとしても、すでに婚姻し子までもうけるに至った以上、ことさら離婚の理由の一部又は被控訴人が松子と前記のような間柄になったことの弁明としてこれを取り上げるのは相当でない。

控訴人の感情表現、挙措動作に問題があり、控訴人との家庭生活に被控訴人が期待したなごやかさに欠けるものがあったとの点(第一の二1(二)参照)についても、元来結婚生活に対する期待の内容、程度は各人各様であって、自己のそれが満たされないからといって直ちに相手方を非難するのは当を得ないのみならず、当時被控訴人の側において妻である控訴人の性格を理解し、円満な家庭生活を築くために十分の努力をしたとはいい難く、そのほか結婚後被控訴人が松子と親密になるまでの四年間に、被控訴人は控訴人との間に前記長男一郎(死亡)、長女春子及び二女夏子をもうけているのであって、かような実情にかんがみ、被控訴人とはいささか一致しない控訴人の性格、行動をもって、直ちに被控訴人が控訴人をうとんじ、松子と深い仲になることもやむをえないと解することはできない。

このようにみれば前記破綻の責任は、基本的には被控訴人にあるというべきである。

2 控訴人の落度

被控訴人が松子と深い仲に陥ったとはいえ、控訴人と同居していたその初期の段階ならば、松子との関係を解消して控訴人との家庭生活を続けることができたと解され、かつ、その場合に控訴人は妻として、被控訴人が松子と深い仲に陥った遠因を避け、被控訴人に対し松子との関係を解消するよう強く要求して然るべきであったところ、前記認定事実(第一の二2及び3参照)によると、控訴人は被控訴人と松子との関係を知りながら、これを解消させるための抗議その他の努力を十分にしたとはいゝ難い。

さらに、控訴人が被控訴人と松子とが婚姻するのもやむを得ないと考えて、被控訴人との離婚届出書に署名押印して被控訴人に交付したこと(第一の二3参照)は、看過できない。

すなわち、第一に、これは、控訴人自身が被控訴人との婚姻関係を解消することにより、被控訴人と松子との婚姻外の関係を婚姻関係に高めることの承認、いわば被控訴人と松子との関係の宥恕とも解される余地がある。第二に、前記認定事実(第一の二3、4参照)によると、松子が被控訴人との長女竹子を懐妊したのは、右離婚届書の作成交付の後であるから、右離婚届作成は被控訴人と松子との間柄をますます親密かつ真剣にしたものと解される。第三に、右離婚届が作成直後で控訴人が飜意する前に戸籍吏に提出されれば、たとえ吏員が控訴人の意思を確認してもその承諾を得てこれを受理したであろうし、そのときは本訴請求を不要ならしめたものである。

次に、被控訴人が幼い長女春子及び二女夏子を連れて別居してから控訴人がこれを引きとるまでのほぼ三年前後の間、被控訴人と同棲中の松子をして実際上右二児の母親代りを勤めさせたこと(第一の二6参照)も、それが控訴人としては当時やむを得なかったにせよ、松子の被控訴人との同棲生活をいよいよ真剣ならしめ、被控訴人をして松子との関係をぬきさしならないものにするものである。

なお、控訴人は別居後被控訴人と松子の同棲先に再三引越を強行しようとしているが(第一の二8参照)、これは被控訴人からの生活費送金中断の後であることも考えれば、特に責められるべき所為とはいえない。

3 被控訴人のその他の落度等

(一) 被控訴人は、前記控訴人から離婚届書を得た後も、その離婚の意思を撤回した前後を通じて、少なくとも複数回控訴人との間で夫婦関係を結び、控訴人をしてさらに二男二郎及び三女あき子を出産させた(第一の二6参照)。

この事態について考察するに、被控訴人と控訴人とは別居中であって、客観的に婚姻は破綻に陥ったとはいえいまだ離婚が成立せず、したがって法律上なお夫婦である間にかかる事態の発生をみたことは、控訴人に対する関係では、被控訴人もまた離婚の意思を撤回したもののように解される余地もあり、そのように解すれば、被控訴人は、破綻に陥った夫婦の仲をたて直すべき責務を負うというべきであるが、被控訴人がその後かような努力をした事実はない。また、控訴人がすでに離婚の意思を飜えし、正常な夫婦の仲の復活を切に望んでいるのに、被控訴人が離婚の意思を維持したままでこの事態を招いたとすれば、被控訴人の行為は無責任というのほかはない。いずれにしても、被控訴人のこの落度は、控訴人の前記2の落度に優るとも劣らないものと判断される。

(二) なお、被控訴人は、別居後も一時子らを手許で養育し、控訴人母娘をたびたび訪問し、生活費、学費、婚資の一部として金員を贈り、転居先を世話し、長女春子、二女夏子を自己の経営する建築事務所に雇入れて賃金を支払った(第一の二4、6、8、9参照)。これらは、扶助扶養義務の履行にすぎないとはいえ、被控訴人に有利な事情であるが、被控訴人の前記基本的な有責性を左右するに足りない。

4 結び

前記諸事情を総合して検討すれば、本件は、控訴人に右婚姻関係破綻の責任があって被控訴人にそれがないとか、いずれにも責任がない場合であるとかとすることはできず、被控訴人に破綻の責任があり、かつ、その有責性は、控訴人のそれよりもはるかに基本的であり、より重大であるというべきである。

三 結論

本件はかような有責配偶者である被控訴人の請求に係るものであるから、結局、本件には民法七七〇条一項五号にいう婚姻を継続し難い重大な事由が存するものとはいえず、本件離婚請求は棄却さるべきである。よって、これと結論を異にする原判決を取消し、被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 内田恒久 野田宏 裁判長裁判官沖野威は、差支えにつき署名、捺印することができない。裁判官 内田恒久)

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